視点 その60

   小説描写における心的遠近法(2)




 焦点子とモチーフとの距離とは、空間的な遠近だけに限らない。すると心のパースペクティブ、人間関係にも遠近というものが生じてくる。
 例えば、ふたりの恋人たちが喫茶店に入ったとしよう。彼と彼女はコーヒーを頼んだ。

 この恋人たちが、付き合いだして間もないカップルだったとしよう。すると、まだ互いのことを良く分かってない。
 だからコーヒーにミルクを入れるのか。砂糖はスプーン何杯か。分からない。だから相手に質問してから恋人のコーヒーに砂糖を入れてあげるか。もしくは自分で勝手に飲むことになるだろう。
 距離的には傍にいたとしても。恋人たちの心のパースペクティブは遠いのだ。遠いから、互いをあまり理解していないが。それはキラキラした憧れだけを相手に投影できる、ということでもある。
 「憧れ」というのも「遠いパースペクティブ」のひとつだ。

 それが時間経過で互いに互いを理解しあった。ふたりは長い付き合いになったとしよう。
 喫茶店に入っても、相手の好みを熟知して、彼女は彼のコーヒーへ勝手に砂糖とミルクを入れてあげるかもしれない。
 だが「近いパースペクティブ」は互いの細かい欠点まで明らかにする。結果、傍にいたとしても、互いに理解し合った関係だったとしても、恋心は冷めてしまい「心のパースペクティブ」は遠くなっている可能性はある。

 こうしてパースペクティブにより、焦点子とモチーフとの「心の距離」まで描き出せる。するとそこに描き出されるのは、人間関係そのもの。関係性のパースペクティブこそ、心的遠近法の真骨頂といえるだろう。


 携帯音楽プレイヤーにミニスピーカーをつけてみれば、よく分かるはずだ。
 スピーカーの声が自分に最も聞こえやすいのは、もちろん自分の方を向いている時だ。
 だが、スピーカーがそっぽを向くと、音が聞こえにくくなる。それは、こう表現しても構わないだろう。相手がそっぽを向くと声が遠くなる、と。

 余談だが。スピーカーが自分から背を向けている状態。つまりは自分と同じ方向を向いていると、案外と声は届いたりする。不思議なものだ。


 読者が文章を読み進め、ページを重ねたとしよう。実はページを進める、ということ自体が物語内における時間経過表現となる。
 すると最初に読んだ箇所の記憶は、読者の中では薄くなる。物語の時間というパースペクティブが遠くなるからだ。


 さて、パースペクティブとは難解な技法・概念だ。心的遠近法となると、さらに応用も良いところ。
 さらに、そこから究極的な話をしよう。

 多視点による心的遠近法の話をした。
 ならば思いつくべきだ。《見る》に対する《見返される》。つまりは、見返されるパースペクティブ。
 すると《見る》主体だけではない。相手の《まなざし》をコントロールする。そうして、見返される《まなざし》の誘導にまで至るだろう。

 そして最終的な話だ。
 人間の視覚とは、しばしば錯覚を起こす。錯覚、すなわち「錯視」を利用した絵画作品も多くある。それらの錯視はパースペクティブを利用したものが多い。
 ならば文章芸術ならばどうか。文章による、イリュージョンのパースペクティブ。それがどのようなものなのかは、各人で考えてほしい。
 実在するから。


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