ストーリー その2

   面白さの正体(前編)




 物語の持つ面白さとは何なのか。違う方向性を持つ、二種類の形式の物語を検証してみよう。ふたつの異なる物語形式に共通する点を探ることで、物語というものが持つ、普遍的な面白さを見いだそうという試みだ。

 ひとつは《ドキュメント》。現実に起こった出来事を記録した物語だ。例えば、小さな子がはじめておつかいするのを記録したり、ヒッチハイクのみで行う旅を記録したり、プロ野球中継を「筋書きのないドラマ」と呼ぶこともある。
 もうひとつは《フィクション》。語り手の想像力によって作られた架空の出来事を描き出した物語だ。こちらはもう馴染み深いだろう。小説、映画、漫画、アニメ、まだ他にもあるだろう。つまりは虚構の作り話だ。

 実はこの二種類の物語は対立関係にあるといっても過言ではなく、その対立は根は深い。
 例えば「事実は小説よりも奇なり」と言う言葉がある。人の想像力は、現実を超えることはできない。だから《フィクション》は《ドキュメント》に決して勝てない、と言うのだ。
 果たしてそうだろうか。
 ボクが問いたいのは、「事実は小説よりも奇なり」は正しいのか。《フィクション》は、《ドキュメント》のリアリティには決して勝てないのか、と言うことだ。

 そもそも「事実は小説よりも奇なり」と言う言葉において《ドキュメント》の優位性を証明付ける、「奇」とは何なのか。「奇」とはすなわち《偶発性》に他ならない。
 《フィクション》においては、すべての出来事に偶然はありえない。どんなに偶然を装ったとしても、それは「偶然に見えるように作られた偶然」に過ぎない。ゆえに《フィクション》における《偶発性》はどこまで巧みになったとしても、予想の範疇から超えることはできない。
 対して、現実の出来事はそれこそ予言者でもない限り、未来に起こる出来事を誰も知りようがない。だから《フィクション》は《ドキュメント》に勝てない、と言うのだ。

 だがこれでは、《ドキュメント》における《偶発性》が許されているのは、現実だからと言う一点のみではないか、とボクは考える。

 ひとつの思考実験として、こう考えてみよう。もしこれが《フィクション》を騙った「やらせ」だとしたらどうだろうか。
 途中まで受け手は現実の出来事だと信じて鑑賞している。もしかして感動して涙のひとつも流すかもしれない。それが、最後に「やらせ」だと明かされたら、受け手はどう感じるだろうか。妥当なところでは、騙されたと怒るかもしれない。
 ここで重要なのは受け手は、なぜ怒ったのか、だ。
 現実だと思って感動していたのに、それが作意ある作り物だったからだ。しかし「やらせ」であったとしても、途中まで感動していたのは確かだろう。

 また《ドキュメント》に関して、もうひとつ、このような思考実験を行ってみよう。
 ドラマの内容は何でも良い。はじめてのおつかいを頼まれようが、ヒッチハイクで旅をしようが、子だくさんの家族を密着取材しようが、途中までそこそこ盛り上がれば問題はない。
 だがラストは何の脈絡もなく、唐突に終わる。隕石が降ってきても良い。飛行機が墜落しても良い。とりあえずは中断される理由が、より理不尽で無関係な理由であればあるほど、実験には効果的だ。

 では果たして、このような《ドキュメント》を受け手はどう感じるだろうか。ある意味、トンデモ的な別の面白さはあるかもしれないが、それは置いておこう。
 《ドキュメント》は現実の記録である。現実に起きた出来事だからこそ《偶発性》が求められると同時に、受け手に許容される。ならば「現実にあったんだから仕方がない」で終わるのか。終わっても良いだろう。ただし《ドキュメント》として受け手を感動させることはできない。
 つまりいかに《ドキュメント》とは言え、あまりにドラマの流れを無視した、突拍子もない《偶発性》は求められないと言うことになる。

 以上ふたつの思考実験に関して、ボクが何を言いたいのか。
 物語はメディアであり、メディアである以上、受け手を感動させる必要がある。そのために《ドキュメント》にも、実際には取捨選択が行われる。
 つまり、《ドキュメント》にも何らかの作意は介在している。《フィクション》との違いは、作意の介入量の差に過ぎない。本質として《ドキュメント》も《フィクション》も同じで変わりない。ならば《フィクション》に求められているものも、《ドキュメント》に求められているものも、同じと言うことになる。

 すなわち物語の面白さとは《偶発性》だけとは限らない、と言う結論が導き出される。
 では物語の面白さとは何か。偶然の出来事も含む、もっと大きな概念。偶然の出来事が生じさせるモノと言うことになる。


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