ストーリー その3

   面白さの正体(後編)




 受け手がドラマの語り手に要求するものとは何か。これは《ドキュメント》も《フィクション》も共通している。面白さだ。
 面白い状態とは、どのようなものか。ドラマを鑑賞している受け手に途中で放り出されることなく、最後まで夢中になって読み進めてくれることだ。
 この読み進める魅力を、ボクは仮に情報価値と言い換えよう。
 価値、つまりはどれだけ大切にされ、役に立ち、欲しがられるかの基準だ。
 ボクは物語の面白さとは、高い価値の情報をいかに作り出すかのテクニックだと考えている。

 これは推理小説などのミステリーだと理解しやすいだろう。
 大抵のミステリーは、例えば殺人事件の犯人が誰なのかと言う、未知の情報の獲得プロセスとなっている。
 誰も知らない、未知の情報には価値がある。知っている情報を改めて教えられても仕方がないが、知らない情報であれば、知る価値が生じる。
 つまり受け手は犯人が誰かと言う情報を知るためにミステリーを読むのだ。これが読む前から真犯人の正体をバラされると、読むのが興醒めになる。
 ならばミステリーの場合、語り手は受け手が、犯人が誰なのかに対して興味が沸くように物語を作れば、面白くなると言うことになる。

 さて、ここからが問題だ。
 ボクはミステリーを《フィクション》の代表として例示した。ならば《ドキュメント》はどのような情報価値を生み出しているのかと言う疑問が生じる。

 「事実は小説よりも奇なり」における「奇」、すなわち《偶発性》。
 《偶然の出来事》が、受け手に与える感情とは何か。驚きである。なぜ驚くのか。その《偶然の出来事》が起こったのが突然であり、予想できなかったからだ。つまり未知の状態である。未知と言うことは、知るに足る情報と言うことになる。
 これで論証は完成しただろうか。いや、まだだ。

 ボクは、《偶発性》が物語の全てではないと言った。
 これだけでは、先程の《ドキュメント》の思考実験に対する説明ができない。すなわち、唐突すぎるドラマはなぜ面白くないのか。

 ボクが思うに、受け手はドラマが最終的にどうなるのか、最初から展開を理解しているのではないか。
 《ドキュメント》は現実の記録であり、過去の出来事である以上、実は「予測不能の未来」など存在していない。
 例えば「はじめてのおつかい」の場合。本当は受け手は、子供がおつかいに成功することを最初から知っている。知った上で受け手はドラマを楽しむ。それ以上の、例えば無事に帰れなかった、と言うような展開は求められない。つまりドラマとしての展開をあまりに超えた突然の出来事は、受け入れられない。語り手によってドラマから排除される。

 それが《ドキュメント》であれ《フィクション》であれ、ドラマにおける《偶然の出来事》は、ただ突然だからと言うだけの理由で起こることはない。(《ドキュメント》の場合は「記録として残される」と言った方が良いかもしれないが。)
 《偶然の出来事》は、ドラマの中で《意味》があるからこそ、語り手によって記述され、残される。《意味》とはすなわち、《用途》と言い換えても良い。役に立たない《偶発性》はドラマから排除されるべきなのだ。

 しかし語り手は、その条件範囲内で受け手の好奇心を刺激しようとする。
 逆に考えれば、先の展開がわかっているからこそ、その範疇で、受け手の求める情報が発生する。期待が生じる、と言い換えても良い。

 《偶然の出来事》はドラマの中に配置される時、ハプニングとして登場人物の目的を阻む、困難となる。すると登場人物がどうやって困難を解決するのか、と言う緊張状態が生み出される。その緊張状態は次の展開に対する未知の状態となり、価値ある情報を生み出す。

 つまりドラマの中における《偶然の出来事》は「次はどうなるのだろう」と感じさせる、ハプニングもしくは困難でなければならない。これから起ころうとするハプニングと、その困難を登場人物が回避する様が、受け手に対する未知の情報となる。
 「次はどうなるのだろう」イコール、次は何が起こるのだろうかと言う期待感だ。

 以上の理由によりボクは「面白さ」とは、「価値ある情報を知る過程」であると考える。
 未知の状態は、情報に価値を付与するのに有効な手段である。既知の情報に対しても、緊張状態にさせることで、未知の情報を作り出し、価値を高めることができる。
 つまりいかに情報に価値を付加するか。極端な話をすれば、価値ある情報を常に提示し続けることで、語り手は受け手を魅了し続けることも論理上可能となってくる。

 そして《構造》とはそのような情報価値を発生させるための、一種の公式だとボクは考えるのだ。


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