視点 その23

   「作者の語り」文体の効果(3)




■自己言及にならない場合

 どんな場合なら、物語外視点が許されるのか。
 まずは内容が自己言及にならない場合だ。この場合は大抵が、無人称と変わりない文章になってしまう。主観を極限まで削ってしまえば、確かに自己言及にはならないだろ。
 ただし、わざわざ物語外視点の文章を書く意味もなくなってしまう。普通の無人称文では、物語外視点独特の効果も得られないからだ。


■物語のルールについて意識的に語る場合

 たとえリアリズムの下に書かれた小説だとしても、あらゆる物語には「その作品だけが持つ独特のルール」というものが存在する。
 大前提、世界観、暗黙の了解、コード、御都合主義、言い方は何でも構わない。ともかくは「そんなもの」として読まなければ、作品が成立しないというような。物語を支配するルールだ。

 例えばミッキーマウスはネズミなのに、人の言葉を喋り、人のように生活している。だがミッキーの飼うペットであるプルートは喋らず、動物の犬として振る舞う。それがグーフィーになると同じく犬の姿をしているというのに、ミッキーのように人として振る舞っている。
 なぜなのか。理由はないに等しい。だが、ともかくミッキーとグーフィーは人のように振る舞い、プルートは動物として振る舞う。「そんなもの」として鑑賞しなければ、ミッキーマウスという作品は鑑賞できないようになっている。

 こうした「物語のルール」を物語内の存在は知らない。「物語のルール」を知りうるのは、物語外の存在だけだ。というわけで作者が「物語のルール」について言及するのは、仕方ないこととして許されることになる。
 昔話の枕詞として使われる「むかしむかし、あるところに」という常套句もそうだ。「今から語る物語は、現在われわれとは関係ない場所・時間で起こったのですよ」という暗黙の了解を、語り手と聞き手で互いに交換するための言葉なのだ。


■異化効果を狙う場合

 物語内の存在は全てが、作品の雰囲気を統一させるという使命を持った奉仕者といって良いだろう。作品に関係ない存在は、排除されて当然になる。そこに物語外視点という異物が入り込んだらどうなるか。
 上手く行けば、異化効果を得られることになる。

参考1 参考2

 それに対して、一人称は同化効果を狙った文章だといえるだろう。
 また三人称文の中で異化効果を狙って、物語外視点を使った場合。「客観的な一人称」に似た効果も獲得できる。というのも物語内から物語外へ視点が移動することで、物語内の出来事がいわば他人事になる。するとモチーフを突き放した、冷静な見方になるのだ。

参考3 参考4

 自分で判断した意見よりも、他人の意見の方が正しく聞こえたりしたことはないだろうか。同じ理屈で、物語に対して他人事となった物語外視点の文章では、事実性が高まったように読めてしまうことになる。
 だからこそ、推測や憶測は物語外視点では危険になる。推測と事実性という、相反する効果が衝突・矛盾した文章になってしまうからだ。つまりこれも自己言及になるのである。


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